こんにちは。「旅の、がっこう」の犬ポンです。
日本での連日の猛暑日、酷暑日が報道されています。世界各地も同様で、今年は特にヨーロッパで記録的な高温が続いています。そんな中で、フランスとベルギーを旅してきました。
今回は、マリー・アントワネットゆかりの地を巡る編です。
マリー・アントワネット

フランスの一王妃に過ぎない彼女の名前を知らない人はいないというぐらい有名です。マリー・アントワネットはわずか14歳で、オーストリアから敵対するフランスに嫁いできました。国の経済を傾かせるほどの浪費ぶり、フランス革命で断頭台の露と消えていった悲劇の王妃です。
ロアン宮殿

フランス・ストラスブールにあるこの宮殿は、マリー・アントワネットが嫁入りする際、フランスに入国して最初に宿泊した宮殿です。このとき彼女は、今後の自分の運命を知る由もありませんでした。 マリー・アントワネットのハプスブルク家とフランスのブルボン家はライバル同士です。マリー・アントワネットとルイ16世の結婚はまさしく政略結婚。フランス入国前はオーストリア仕立ての服装でしたが、国境付近で下着から靴下まだすべてフランス仕立ての服装に着替えさせられました。このお輿入れを当時学生だった文豪ゲーテは見ていました。
ベルサイユ宮殿王室礼拝堂

太陽王ことルイ14世によって建設されたベルサイユ宮殿。王権神授説を象徴する王室礼拝堂でマリー・アントワネットとルイ16世(当時皇太子)との結婚式が行われました。この結婚式にはパリじゅうの市民がベルサイユ宮殿に集まったと言われています。婚礼の日のルイ16世の日記は「皇太子妃との面談」、初夜の日記は「特になし」だそうです。先が思いやられます。
マリー・アントワネットの寝室

ルイ14世はベルサイユ宮殿での生活をすべて公開していました。貴族も庶民も正装していれば宮殿に入ることが許されていました。これはマリー・アントワネットの時代も同じです。出産も公開されていたと聞くと、私は庶民でよかったとおもいました。マリー・アントワネットも苦痛だったようです。手すりの向こうとこちらは別世界です。
ベルサイユ宮殿鏡の間

ルイ14世が国内外に権力の強大さを示すだけではなく、公式行事や外交の場として使われ、宴会、仮面舞踏会の場としてもつかわれました。マリー・アントワネットもここでダンスをしたのでしょう。
王族の生活が公開されていたということは、全てが筒向けだったことを意味します。フランス人権宣言を承認したルイ16世ですが、第11条に「思想及び意見の自由な伝達は、人の最も貴重な権利の1つである」とあります。人々は自由に話し、書き、出版することができるということです。国王夫妻の生活は、あることないこと国内外に発信されました。
プチ・トリアノン

ルイ16世によってマリー・アントワネットに与えられました(15世の時代に建築されました)。ベルサイユ宮殿の厳格な慣習や規則に縛られた生活は、マリー・アントワネットにとって息が詰まるものでした。そのためプチ・トリアノンには、限られた人たちのみが出入りを許されていたそうです。
マリー・アントワネットはベルサイユよりこちらで生活する時間が長かったようです。マリー・アントワネットの性格をよく知る母・マリア・テレジア、兄・ヨーゼフ2世は、浪費や宮殿での過ごし方を心配し、再三注意をしています。しかし、残念ながら彼らにとっては君主の地位を守ることが第1位で、庶民の生活は他人事でした。
プチ・トリアノンのマリー・アントワネットの寝室

ここでの生活は、絢爛豪華なベルサイユ宮殿とは違い、マリー・アントワネットの好みの家具や調度品が置かれ、堅苦しい作法や王妃という身分から解放されて、お気に入りの寵臣たちと楽しく過ごしました。私もベルサイユ宮殿ではなくこちらで寝たいです。奥にある窓は、人目を避ける時には下から壁が上がってくる仕組みです。
プチ・トリアノン愛の宮殿

マリー・アントワネットと恋人フェルセンが密会した場所。しかし、実際には純愛で、我々が思うような関係ではなかったようです。自由な伝達の保障は、我々が歴史の時間で学んだマリー・アントワネットの虚像を作り上げました。
ベルサイユ宮殿のバルコニー

1789年7月14日バスティーユ牢獄襲撃から始まったフランス革命。同年10月5日物価高騰に苦しむパリの女性たちは、窮状をベルサイユ宮殿の王家に訴え(ベルサイユ行進)、王家一家をパリに連行しました。その際マリー・アントワネットはこのベランダに立ちました。
「パンがなければお菓子を食べればいいのに」浪費家王妃等さまざま彼女は言われています。ルイ16世との結婚生活の失望や、つかの間の自由を謳歌するための浪費は今の世でもあります。しかし、朝廷内のマリー・アントワネットへの陰謀と嫉妬があったのも事実で、彼女に同情する面も多々あります。
コンシェルジュリーでのマリー・アントワネットの衣装

王家一族がオーストリアへの脱出を図り失敗したヴァレンヌ逃亡事件により、国王一家はより警備の厳重なタンプル塔へと移されます。そして、フランス革命時に王族や貴族を収容する監獄として使用され「一度収容されると生きては帰れない」と言われていたコンシェルジュリーに移され、マリー・アントワネットは囚人として処刑されるその日までを過ごしました。マリー・アントワネットは、確かに自由奔放でわがままな面もありましたが、母になり、ベルサイユからパリに連れ戻された頃から気持ちが大きく変化します。当時のマリー・アントワネットの手紙に「不幸になってはじめて、自分が何者だったのかが分かります。」「他人のために悩むことが義務であり、私たちはそれを十分果たしております。いつの日か、それが分かってもらえますように。」と書いています。しかし、時すでに遅しでした。
コンコルド広場

当時は革命広場と呼ばれ、ルイ16世やマリー・アントワネットの処刑が行われた場所です。マリー・アントワネットの最後の言葉は、処刑執行人の足を踏んでしまい「ごめんなさい。わざとじゃないの。」私にはマリー・アントワネットが悪い人物とは思えません。彼女をよく思わない人や後世の人が作り上げた人物像であると思います。タンプル塔に幽閉され、コンシェルジュリーで処刑を待つ期間、管理人や憲兵(ともに平民)は、彼女と接していく中で憎しみから理解者(味方)に変わっていった人が多かったと言うことです。皆さんも彼女と話がしたいと思いませんか。
まとめ
歴史にIfはないと言われます。結婚相手が優柔不断でなく決断力のある人間だったら、もっと早くマリー・アントワネットが母譲りの統率力を発揮していたら、ブルボン家の財政が傾いていなければ、違う意味で歴史に名を刻んだのでしょう。しかし、歴史はそれを許さなかった。我々は歴史という結果を知っているので、そんなことが言えるのでしょう。誰だって自分の未来は想像できません。神のみぞ知るということになります。
池田理代子先生がツヴァイク著の小説「マリー・アントワネット」に感銘を受け、同小説を(史実部分の多くは訳文から)参考にして描いた作品が「ベルサイユのばら」です。マリー・アントワネットを巡る旅を考えている人に、ツヴァイクの小説おすすめです。

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